【福寿こらむ】私の趣味《1》

 

福島寿光会病院名誉院長 木田雅彦

 

 私は小学生のころ園芸が好きで、小さな庭でしたがさつきをいく鉢も育てていた。また、その庭に箱庭風に小さな池や家屋を配置して遊んだ。そのころ、二軒隣に植木職人の家があり、時々そこへ行って挿し木の水やりを眺めて居た。ある時、職人さんから「挿し木の仕方を教えてやろう。」といわれた。よほど興味津々と眺めていたのだろう。早速家に帰って木下闇に30㎝四方の挿し木床を作った。ポイントを教えていただいたので安定して90%以上を根付かせることができるようになった。しかしながら、中学校に進むと学校の活動が忙しくなり植木の世話ができなくなったと思いこんだが、実は趣味が変わったという方が正しいのかもしれない。

 中学高校時代は、考古学にのめり込んだ。当時父が市の文化財審議委員を務めていて、小学生の時に何度も発掘や文化財の調査に連れて行ってもらった。父の専門は金石文であり、福島県史やいわき市史の分担をした。しかし発掘にも関係していた。最初は、昭和30年代半ばの国宝白水阿弥陀堂の庭園確認発掘調査であった。その後小名浜の寺脇貝塚や台の上貝塚、楢葉の天神山遺跡にも連れて行ってもらった。中学生になると、発掘に一人で参加するようになった。いわき市では伊勢林遺跡、大畑貝塚、八幡横穴などに参加した。 

 大畑貝塚は4年度に渡って調査が行われた。高校2年生の夏の調査では、貝塚から人骨が出土した。その人骨を調査するために新潟大学教授の小片保先生が現場にやってきた。子供の私は悪びれもせず「人類学者では鈴木尚先生と小片保先生が有名ですね。」と言ってしまった。先生はニコニコされて「私が小片です。鈴木先生は私の先生です。」と答えられた。そして「人類学をするなら東大もよいですが、医学部で自然人類学を専攻するのもよいですよ。」とご教示くださり、「新潟大学に来てください。」とお誘いを受けた。果たして私は新潟大学に進学した。趣味が高じて人類学を職業とすべく選択した。

 入学すると小片先生は研究室に私の机を準備してくださった。そして骨の勉強を開始した。標本をスケッチして各部の名称を記入する。そうやって形と名前を覚えていくのである。繰り返し観察することでだんだんと骨の形が理解でき、発掘現場で破片でも人骨と獣骨の区別がつくようになる。しかし残念なことに先生は私が3年生(学部1年生)の冬に急逝された。私の人生は大きく狂った。

(次回に続く)

 

【福寿こらむ】TOPページ

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次