福島寿光会病院名誉院長 木田雅彦
大学生時代は法医学研究室にも出入りしていた。新潟大学法医学教室の初代教授はホトトギス派の4Sの一人である高野素十先生(本名與巳)であった。素十先生は外科学教授中田瑞穂先生(俳号みづほ)が東大から呼び寄せた。話は逸れるが、中田先生は日本で最初に脳外科を立ち上げた泰斗であり、当時同僚であった平沢興教授(脳解剖学の泰斗、のちに京大総長に就任)もおられたことで、東大教授時実利彦先生が新潟大学の脳研究の質を高く評価され東大に予定されていた脳研究所が新潟大学に設置された。当時は文部省の方針で研究所設置が全国に1施設と決まっていた。
素十先生とみずほ先生が揃い、当時の新潟大学医学部では教授たちはもちろん多くの研究者が俳句をたしなみ、「俳句を行わないものは人にあらず」というほどの勢いであったとのことである。法医学教室でも教授は代々俳句に造詣が深く、二代目は山内大刀先生、三代目が茂野六花先生、四代目が二代目のご子息の山内百雷先生と皆俳号をお持ちであった。その様な訳で、法医学教室に出入りしていた私も必然的に?俳句を習う羽目となった。
当時の大学俳句会に学生会員はいなかった。茂野六花先生から、昔のような賑わいを取り戻してほしいと依頼された。それから色々と企画して10人以上の学生会員が集まった。そこで、東洋大学俳句会と夏行を行うことになった。夏行とは俳句を作りに遠出することである。新潟の温泉地や苗場の高原、潮来などを訪れた。合同の夏行は5・6年続いた。東洋大学俳句会顧問の松村紅花先生は、素十先生の高弟で俳誌「雪」の選者であった。その関係で、私も「雪」の誌友となった。最後の夏行の時、六花先生が夜間に狭心症発作を発症した。先生は大げさにするなということで、私は保険証も持たずに近隣の医院から無理にお願いしてニトロ剤を譲り受けた。その後、六花先生に仲人の労を頂いた。それから先生は新潟大学学長に就任されたが、約6ヵ月で心筋梗塞を発症して鬼籍に入られた。
その後もしばらくは赴任先の大学で俳句部を結成したりして、学生たちに俳句を指導していた。またその土地の「まはぎ」系の俳句会に参加してホ句(俳句を作ること)と「雪」への投句を続けた。しかしある時から、感覚を選者に合わせるといった何か家元制度みたいな点に疑問を感じて、俳句から離れてしまった。それは私に才能がないことの言い訳かも知れない。
(次回に続く)
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